近畿ブラ歩き2

休日の余暇を利用して、畿内の神社仏閣と祭り・催しを訪れて歩き回って居ます

2026年7月17日祇園前祭山鉾巡行1️⃣

前回の当日の報告は開始前の触りを投稿致しました。

此処までが、前回投稿致しました画像です。

開始直前で救急車が、待機して居る山鉾の列に割り込んで来て騒然としました。

何事か?と思いきや❓️自分の体調管理も出来無い無粋者が、救急車のタンカに載せらて運ばれ、山鉾巡行の開始が少し遅らせる事態と成りましたが、無事に開始出来ました。

 

此方からは、其の後に撮影しました画像です。

先頭を切る籤取らず長刀鉾が、ジワジワと近付いて来ました。

 

長刀鉾が、籤改め処まで綱を引っ張り移動してます。

 

近付いて来たら、私の双眸は長刀鉾の稚児さんに釘付けに成りました。

稚児さんの立ち居振る舞いと所作を見ていると、両手🤲で印を結んで居る所作が見えて居ます。

 

京都の祇園祭で先頭を行く長刀鉾に乗るお稚児さんは、生身の子どもが乗る唯一の「生稚児(いきちご)」です。

年齢8〜10歳ぐらいの男子が選ばれ、神の使いとして扱われ、山鉾巡行で「しめ縄切り」を行う重大な役目を担います。

 

以前は、他の鉾も生稚児を乗せて山鉾巡行をお練りして居ましたが、天命の大火(1788)で壊滅的な被害を受けた函谷鉾が天保10年(1839)に復興する際、稚児人形を持ちいたのをきっかけに、鉾の鉾もそれにならい人形に替えていった。

前祭23基・後祭11基・休山1基有る中、唯一山鉾に乗る生稚児を抱いてのが長刀鉾だけでして、山鉾には乗って居ないが生稚児が多数居るのが綾傘鉾です。

 

長刀鉾の象徴的な花形が生稚児為らば、長刀鉾を指揮する花形は音頭取で、鉾の前部に乗って片手に綱を握りしめ、片手に金箔銀箔を散らばった扇子を広げて声掛け一閃扇子を左右に振って曳き手と屋根方・囃子方・車方(鉾の舵をとる役)に指揮だす役割を担って居ます。

生稚児を介添えして居る剛力に命を預け、剛力に身体を支えられて前にせり出され、舞を舞って居ます。

 

囃子方の鉦(かね)・太鼓・笛の音が、あの独特の「コンコンチキチキコンチキチン」と流れる音を奏でて居ます。

 

長刀鉾を輜重を担う裏方。

輜重の中には、熱中症を予防する為、ペットボトル飲料や拡声器📣・トランシーバー・カメラ等及び所持品が入って居ます。

 

更に先に、観光協会が観光客目当ての有料観覧席を設け、其の中心に籤改め処が設置して居ます。

長刀鉾は、先頭を切る鉾で「しめ縄切り」の大役を担って居ますので当然籤を取らずで通過する特権を得て居ます。

籤取らずの鉾数基以外は、籤改めで籤番を記載した書状を広げ、書状に記載した文言を町の長老が代表して読み上げ、改め方は確認して書状を受け取る。

次回も引続き、投稿致します。

 

祇園前祭宵々山 四条傘鉾

芦刈山を後にして、綾小路通を右折して油小路通に沿って四条通に出ました。 

四条通から烏丸通に向う矢先、最後の足止めをして四条傘鉾に向いました。

四条傘鉾は、織物の垂りなどをつけた傘と棒ふりはやしが巡行する古い鉾の形態である傘鉾の一つで、応仁の乱以前に起源をもち、傘の上には御幣と若松を飾る。

明治4年に巡行に加わって以降と絶えていたこの四条傘鉾も、昭和60年、町内の人々の努力が実り傘の本体が再興され、昭和63年から巡行に欠かせない踊りとはやしが復元され、32番目の山鉾として巡行することになった。

なお、踊りとはやしは、室町時代に京都から広まった風流踊りで、今も滋賀県の滝樹神社に伝わる「ケンケト踊」を参考に復元したものである。

垂りは鈴鹿雄次郎製作の麗光鳳舞の図である。

四条西洞院交差点から四条烏丸へ阪急烏丸駅に向い、帰路に付きました。

次回は、祇園前祭の本番山鉾巡行当日に触りだけ報告を投稿致しましたが、触り画像に長刀鉾から出発から綾傘鉾までの巡行を投稿致します。

 

 

 

 

 

祇園前祭宵々山 芦刈山

綾小路通の中程まで移動しましたら 、芦刈山の山鉾が見えて居ます。

 

何方の山鉾保存会が有る町内には、縄張りを示す提灯が通りの交差する四角の電信柱辺りに提灯が吊るし縄張りを誇示して居ます。

是はとても大事な事でして、山鉾が密集して居る地域では通り交差点四方に山鉾が点在して居る場所が有り、暗黙の了解で居場所を示す提灯を灯し縄張りを知らしめて居るのです。

芦刈山の謂れは、謡曲「蘆刈」に基づく。

故あって妻と離れて難波の浦で芦を刈る老翁が、やがて妻と再会をはたす夫婦和合の姿をあらわす。

御神体(人形)の旧御頭は天分6年(1537)七条仏師運慶の流れをくむ康運作。

天正17年(1589)銘をもつ重要文化財指定の「綾地締切蝶牡丹文片身替小袖」は山鉾最古の衣装。

現在の前懸と見送は山口華楊原画の緞通「凝視」(1986)と綴織「鶴図」(1985)、胴懸は尾形光琳原画の「燕子花図」(1994)。

欄縁は彫金飛雁の錺金具は明治36年(1903)川辺華挙 の下絵で藤原観教作。

旧胴懸の「鶴亀蜀紅文絲錦裂」(江戸時代)をはじめ「獅子蜀紅文襦珍小袖」(江戸時代)、古い見送など貴重な染織品を多く残している。

 

此方の画像が、先程触れた芦刈山の装飾品です。

 

最後に、山の後方と保存会のグッズ販売のテントを一瞥して後にしました。

次回の投稿で、最後と致します。

 

 

老舗中華飯店のお品書き

阪急河原町駅及び京阪祇園四条駅から八坂神社・知恩院方面に散策する際、四条大橋の手前に洋風建築の建物が聳え立って居ます。

此方は「東華菜館」と呼ばれる洋館の前身は、西洋料理店「矢尾政」です。

大正の頃よりビアホールブームが始まっており、大正13年「矢尾政」2代目当主・浅井安次郎氏が新しいビアレストランをイメージし、その設計をウィリアム・メリル・ボォーリズ氏に依頼。

大正15年に、このスパニッシュ・バロックの洋館が生まれました。

その後、戦時色が深まる中、洋食レストランの存続が許されない状況になり、浅井安次郎氏はこの建物を中国人の友人・于永善に託しました。

中国山東省出身の于永善(うえいぜん)は、大連で北京料理のベースである山東料理を修得して来日しており、ここで北京料理店を創業。

昭和20年末、「東華菜館」が誕生致しました。尚「東華菜館洛北店」は、現当主・于純政が、平成5年にオープン致しました。

 

平成世代には、京都を舞台にした京都大学農学部卒出身の経歴を持つ異色の小説家・森見登美彦氏執筆「有頂天家族」「有頂天家族2」の化け上手の狸が主人公・下鴨矢三郎とその兄弟達が京都市内を狭しと暴れまわり笑いを誘う作品で、此方の「東華菜館本店」がアニメの舞台と成って居ます。

 

東華菜館本店前を通っ時に、偶然玄関入口でパンフレットがポストに差し込まれて居るのを目にして一部持ち帰りました。

パンフレットのお品書きに目を向けると、とても追い其れとは入店して気楽に食事を行う事を躊躇う程、財布👛の中を気にする価格が表示されて居ました。(笑)

コース料理のお品書きが羅列されて居り、最低価格が税抜き価格六阡円・八阡円・壱萬円・壱萬参阡円・壱萬伍阡円・弐萬円・弐萬円・弐萬伍阡円と七つの価格帯が表示されて居る。

※コース料理は、お一人様の金額です。二人様よりお受け致します。

※種々前菜の盛り合わせ・揚げ物・海鮮類の強火炒め等、料理名が同じでもお値段により内容が異なります。

※料理の内容は、季節により変わります。

※コース料理は、税込金額にサービス料10%を加算させて頂きます。

 

と、上記の説明書きが添えられ、コース料理に消費税+サービス料10%が加算されると但書きが添えられ居ます。一体、幾らに為るか、戦々恐々です。

今度は、1品料理の価格メニューです。

全て撮影するのが困難なので、一部抜粋します。

 

1品料理は、全て税込価格でサービス料が加算され無いので安心してオーダー出来ますが、安い1品料理を注文しても最低1500円からでして、二品とライスを注文したら財布には5,000円以上、否少なくとも10,000円入れて行かないと安心して食事を摂る事は出来ません。(笑)

次回は、また祇園前祭の宵々山に戻り再開します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

媽媽菜館 総本家 六花

六道珍皇寺を退出して寺左側の辻に入り、裏側の清水道通から東大路に出て京都市営バスに乗車して京都大学キャンパスが在る百萬遍バス停で下車しました。

当初京都王将百萬遍店で昼食を済ませ様と思いましたが、入口の硝子ドア越しに順番待ちで混み入って居るので入店を回避しました。

次の代案は既に決まって居り、王将に隣接して居るセブン-イレブンを左折したら京阪出町柳駅へ道を歩き、ヤハリ中華料理店に入りました。

入店して直ぐに店内に通され、奥のカウンター席に付きました。

台湾🇹🇼料理 媽媽 菜館 総本家 六花です。

此方も何度か利用させて頂き、本格中華料理を提供する料理店です。

今回は、此方の2品をオーダーしました。

 

先ず最初に出されのが、魯肉飯です。

台湾🇹🇼では、ポピュラーなソウルフードです。

次は、ジャージャー麺麺です。

其の日の私の体調にも拠るのデスが、食べ慣れて居る魯肉飯が御飯に懸ける豚肉の煮込みが時間かけ過ぎて為、風味と味が落ちて居ました。

そして最も残念なナノは、ジャージャー麺です。

以前食べた別物が提供され、気に入らなかったのが冷やし麺造りで、パスタのアルデンテの様に完全に火を通さないで直ぐに冷水で締め、麺のヌメリを取った平打麺でしたよ。

冷えた平麺を口に入れて咀嚼したら、固い事固い事とても噛み切れるレベルでは有りませんでした。

オマケに肉餡の味も、以前食べた味とは掛け離れ、肉餡には甜麺醤と豆鼓の香りが全くせず、全く別物でした。

以前食べた甜麺醤の隠し味が豆鼓でした、豆片を咀嚼したら京都大徳寺の黒い納豆の味がして居ました。

魯肉飯は扠置き、ジャージャー麺はとても戴けません。

其れなら、中太麺を使った熱々の肉餡の方が良かったです。残念です!

次回は、隣人がオーダーしていた油淋鶏定食を頼みたいです。

次回は、六道珍皇寺へ行く道すがら京都の老舗中華飯店の玄関入口で目にした物を投稿致します。

 

六道珍皇寺「御精霊迎え」に詣りました

お盆の時期を迎えると、六道(珍皇寺)さんにお詣りに参ります。

今年も去年よりも数日早く、初日に参る事が出来ました。

毎年8月7日〜10日の4日間、六道の辻参りと呼ばれて御先祖の御霊をお迎えする「御精霊迎え」で六道珍皇寺は、京都市内外から参拝者が押し寄せて境内はごった返して居ます。

中でも列を成して鐘を撞く「六道の辻󠄀・迎え鐘」は、あの世まで音が届くという「迎え鐘」を撞いて精霊を迎えます。

六道珍皇寺さんへ向う通りの光景と入口の正門前です。

門を潜ると特設テントが幾つも連なり、中では仏壇にお供えする高野槇やホオヅキ、蝋燭・線香等が売られ、酷暑の中参拝に訪れる客相手にかき氷も販売されて居ました。

 

境内の様子を眺め、お堂に辿り着いて手を合わせ合掌し、先祖の為祈り🙏ました。

 

此の御朱印帳に御朱印をもらいまして三体賜りました。

御朱印帳のデザインは、3月に花見遊山🌸に出掛けた時に、鹿ケ谷界隈の事に触れて幾つか名前を出した古刹の寺「安楽寺」の松虫姫・鈴虫姫の仏門に入り、流れ着いた安芸のお寺で得度して先祖を供養して居る姿が描かれて居ます。

 

 

小野篁卿の書置御朱印です。

小野篁卿を通じて閻魔天とも縁が有る六道珍皇寺の見開き御朱印です。

地蔵菩薩の見開き御朱印です。

閻魔天の仮の姿(化身)で有る地蔵菩薩は冥府(地獄)で迷う亡者や水子の魂を慈悲で導き、魂を浄化させて六道の何れか世界へ生まれ変わらせる水先案内を担って居ます。

 

御朱印が、記帳される間、鐘撞き堂の周りを見廻し居ますと、地元放送局らしきクルーが迎え鐘を撞いて居る参拝者の様子を撮影して居る様です。

東門を越えて、順番待ちで長蛇の列を成して外の裏辻まで並ばして居る様です。

是で退出して来た道を亦戻り、裏通りを歩いて東大路まで歩き、昼食を摂る為にバスで移動して居ると、先程の順番待ちの列の後方が祇園辻利の配送センターまで延びようとして居るではないか?

 

本当に、ギョッとさせられる光景です。

是でも未だお詣りのピークに達して居らず、並んで居る参拝者の数は少ないと思うわれますよ?

 

次回は、昼食の食レポを投稿致します。

 

 

 

 

 

祇園前祭宵々山 或る居酒屋🏮の玄関風景

伯牙山から離れ、綾小路通と西洞院通が交差する角にとても飲酒店には見えない居酒屋🏮が有りました。

是でも店?かとガン見したら、思わぬ発見が有りました。

此方が、綾小路通と西洞院通が交差する交差点。

 

工エエェェ(´д`)ェェエエ工と、声が漏れ出そうに成りました。(笑)

とても居酒屋🏮には見えない。と心の声が叫んで居る。

抑々見ると風情が有り、魅入って居ました。

 

タッタ是だけの事なのに、京都の町衆の気遣いと心意気に感服しました。

四条通を越えて北側の各通りの町家には、是でもか?と言わんばかりに祇園祭の期間だけ家のお宝(屏風絵等)を見せ付らんと窓硝子越しに置かれ飾られて居る。

以前は何気無く眺めて居ましたが、余りにも鼻に突くので、観ない様に避けて居ます。

けれど、さらりと何気無く魅せて居るのが憎いですよね?(笑)

 

居酒屋🏮を一瞥して、先に見えて居る山へ向かいました。

 

次回は、芦刈山の様子を投稿致します。