近畿ブラ歩き2

以前のブログを踏襲します

井筒屋八ツ橋本舗

六波羅蜜寺を後にし、東大路を越えて清水道の坂を上がり、洛陽三十三所観音霊場札所青龍寺を隈なく探し廻ったが見当たらず、同じ場所や周辺を行ったり来たりを2回繰り返し、埒が開かないので高台寺周辺まで足を伸ばしたが余計に頭がこんがらがって人の流れに身を任せて行き着いた場所が産寧坂(三年坂)の階段を居りる辺りから二寧坂(二年坂)まで行き着いた。

店舗を横目にウィンドウショッピング紛いな感じで、或る店の前に佇みました。

嵐電沿線を乗り鉄帷子ノ辻駅北野白梅町行電車に乗り換える際に、車両を撮影しましたが後でブロ友さんから鋭い指摘を受けて返答に窮した事で其のお店に置かれ居るマスコットを見て思いだしました。

 

此方のマスコットなのですが、嵐電車両にラッピングされて居ましたあの八ツ橋のモデル嬢です。

此のマスコットを見て、アッと思い出しました。

中を覗く口実が居るので、何か欲しい物は無いかと見渡しました所、此の時期食べたい和菓子の案内が目に入りましたので中へ入りました。

上の3枚の映像に映り込んでいるのはガイドさんに伴われた入店した修学旅行で土産を買い求める男子高校生達でして、私は後を追うように続いて入りました。

何を買い求めたか申しますと、3枚目の映像に赤く友子と書き込まれた白地の提灯と柱横に貼付けられて居る紙に平仮名で「みなづき(水無月)」と言うもち米で作られた和菓子です。

合わせ持って嵐電ラッピング電車に描かれたモデルの名前が解りました。

提灯に書き込まれた名前がモデルの名前でして、「友子」と申します。

私が和菓子の代金を支払って居る最中に旅行生を店に案内したガイドが店の支配人らしき人物から手移しで焼き八ツ橋のおまけを頂く光景をマジマジと見て居ると、私にもおまけの焼き八ツ橋を和菓子を入れた袋に入れてくれた。

 

最後に八ツ橋の謂れに付いて説明致しますが、そもそも八ツ橋は焼いた物が本元でして、生八ツ橋は後付けで作られた物です。

八ツ橋が創生されたのが、300年とも400年とも言われ、当時の焼き八ツ橋は知らないですが、幼い時に食べた焼き八ツ橋は固かったと思いました。

生八ツ橋の期限は調べたら高々60数年の歴史しか無いが、焼き八ツ橋の売れ行きが頭打ちの感が否めなかったので八ツ橋を活かした新しい菓子が創生されたのが生八ツ橋です。

生八ツ橋の利点は、言わずもがな旅行土産として観光客受けする商品でして焼き八ツ橋よりは生の食感が自然と受け入れるのが堪らないです。

八ツ橋の名前が始めから存在して居なく、盲いた箏曲八橋検校の遺徳と業績を偲んで、箏琴の形をした堅焼き煎餅を都(当時の京都)で作られた焼き菓子を「八ツ橋」と名付けたと伝えられて居ます。

次回は、産寧坂から二寧坂の賑わいを投稿致します。